舞台『染、色』考察
舞台『染、色』の考察
↓↓↓大まかな流れ
1.結論
2.原作と舞台の相違点
③名前
②新たな登場人物(滝川先生)
③グラフィック作品
④タギングについての深堀り
⑤タイトル
3.その他の考察
①衣装
②秋に咲いたソメイヨシノ
③多面性
④トマトスープの詩
⑤スプレーを隠された白い真末
⑥最後の白い真末
⑦真末、ポリ滝川先生が深馬という根拠
⑧印象的な台詞
⑨現実?妄想?
1.結論
『染、色』で描かれているのは、「自分以外の何者かになろうとする人間、そして人間の多面性」。
深馬には自分で認識できていない深層心理の部分があり、それが真未・(ポリダクトリーへの願望を持つ)滝川先生として現れている。つまり、深馬、真未、(ポリダクトリーへの願望を持つ)滝川先生は三位一体。同一人物。しかし、深馬はこの2人の存在を認識しながらも自分の別人格ということは認識できていない。
※多重人格は解離性同一性障害と言うが、これは無意識のうちに入れ替わっているなどの重度の症状。この舞台では無意識のうちに人格が変わるという場面が見受けられなかったので、多重人格ではなく別人格と表記。
2.原作と舞台の相違点
①名前
原作では市村文登(ふみと)、橋本美優(みゆ)
→舞台では深馬(みうま)、真未(まみ)
に変わっている。
結論で、真未と深馬は同一人物と言ったが、2人の名前はこの暗示。「みうま」の中に「まみ」がいる。しりとりをしても、みうま→まみと繋がる。表裏一体。
真未という漢字も、「未」だ「真」実では無い。
真未という人物は確かに存在するものの、深馬の中にしか存在しないため現実世界には存在しない。=真実ではない
深馬の漢字は人間の「深」い部分の暗示(?
②新たな登場人物(滝川先生)
原作にはいなかった滝川先生の大きな役割。
※この舞台に存在する2人の滝川先生
滝川①=現実の滝川先生
滝川②=深馬の深層心理としての滝川先生
※滝川②はポリダクトリーへの憧れをもつ先生のこと(長すぎるのでポリ滝川先生と省略
現実の滝川先生は北見たちと話をするように、そのままの滝川先生。
大事なのはポリ滝川先生。
物語後半、居酒屋で深馬と北見・原田が滝川先生について話すシーンがあるが、ここで滝川先生について噛み合わない部分がある。
滝川先生が存在しているということは共通の認識なのに、ポリダクトリーについての認識は一致しない。
ポリ滝川先生とはどういう存在なのか?
→深馬しか知らない存在。深馬の深層心理が現れでたもの。深馬の中の願望が滝川先生。
深馬は滝川先生に何かしらの願望を頼った?
原田が滝川先生に指示されてカメラを回すシーンもあったが、「頼る」と「依存する」は深い関係にある。深馬が悩んだとき「先生ならどうしますか?」「こんな時期はありませんでしたか?」と言うふうに先生に不安を見せ、意見を求めていた。
舞台上ではっきりした演出はなかったものの北見や原田に見せない一面を滝川先生には見せていたという点で、深馬は滝川先生に何か近いものを感じ、頼った?
③グラフィック作品
《原作》
哺乳瓶を咥える赤ん坊、顔の半分が骸骨になった人物画、巨大化した外来魚が人を襲う
《舞台》
恐竜の骨、卵(?)お米(?)の中の女性、青い炎を纏う花、キマイラを連想させる動物、カラフルな街並み、目
原作と舞台では描かれているグラフィックのジャンルは全く違う。
しかし、舞台で一際フォーカスが当てられた作品が1つ。
↓↓↓
キマイラを連想させる動物のグラフィック。
この作品は、深馬が初めて真未を認識し、初めてタギングをして2人の合作として残した作品。
キマイラ(牝山羊)とは、ライオンの頭、ヤギの胴体、毒蛇の尻尾を持つ動物。その奇妙な外見から「理解できない夢」の象徴であり、名詞としては「怪物、妄想」で、「淫欲、悪魔」という意味付けをされることも。
また、ライオンは「恋愛における相手への強い衝動」「春」、ヤギは「速やかな恋の成就」「夏」、ヘビは「失望、悔恨」「冬」を象徴する。
ここで、重要ポイントが1つ。
深馬と真未が描いたグラフィックにライオンは描かれていない。なのにどうしてこのグラフィックがキマイラを表していると言えるのか?
①であやふやになっていた深馬の名前に理由が。深馬は「しんば」と読むことができる。しんば→シンバ→️🦁(ライオン)。シンバはライオンを意味する言葉。
つまり、このグラフィックに深馬が加わることで初めてキマイラとしての意味を成す。
衝動に駆られ行動するも、この先の芸術や人生に対して諦めが見えている深馬。
深馬がまだ理解出来ていない、自身の深層心理。
このキマイラは物語を象徴するグラフィック作品。
④タギングについての深掘り
原作ではあまり深堀りされていなかったタギング。
舞台では6本目の指のネーミングを考えるシーンがある。
(↓「指」省略
・第六感
・二股
・犯人はお前だ
・コンクリの隙間から生えるタンポポ
・卑猥な大根
・間違ったモヒカン
・先生の「で」っていう口癖
・スターバックスの緑茶
・知らない人の第二ボタン
・シメのラーメン
・その後のバニラアイス
・次の日の胸やけ
・3日目の向かい酒
伏線???
・第六感
自分でも分からない深層心理の部分。真未とポリ滝川先生が自分の深層心理の表れでありながら、深馬がそのことに気づいていないという象徴?
・二股
深馬が杏奈と真未を二股している(ような)状態になること。このときは深馬の首に赤のスプレーが付く前で、この後の関係を暗示。
・犯人はお前だ
深馬のキャンバスが破壊したときのは犯人探し、ポリダクトリーを名乗る偽物は誰なのか、という犯人探し。
ポリ滝川先生は深馬たちのタギングを消して自分のタギングを残している。この行為をするポリ滝川先生を自分の目で見た深馬は、「犯人はお前だ」と面と向かって言うことが出来る。
(あとのネーミングは全くわからない、、、)
⑤タイトル
『染 色』と『染、色』
↓パンフレッㇳでのシゲアキ大先生
「タイトルは、悩んだ結果『、』を入れた」
《舞台での流れ》
滝川の部屋で、深馬が倒れそうになった絵を支えて腕に絵の具が付く
↓
暗転
↓
藍色のバック
↓
藍色のバックに「染 色」の白い文字
↓
さらに「、」が加わる
白の「染 色」は、深馬の象徴?
白は何にも染っていない表の部分。別の言葉で言うと、深層心理では無い部分。何にも染っていない分、何にでも染まることができ、同時に染められてしまう深馬。
その後ろにあるのは、藍色。藍色は限りなく黒に近いが完全に黒ではない。黒になってしまうと何にも染ることが出来ないが、藍色はまだ染まる余地がある。「染 色」の後ろに、不思議な雰囲気を持って広く存在しているこの藍色は、真未を象徴している。
原作と舞台で異なっている深馬と真未の名前について考えると、名前とこのタイトルにも関係が見えてくる。
タイトルの「染 色」の間にあるこの「、」は真未。
深馬の中に真未が存在する。
このタイトルを描いたのはシゲアキ大先生であり、「染 色」のタッチよりも「、」のタッチの方が雑(?)というか迷いがない感じ。真未が迷いなく自分の意思で絵を描いていく様子と重なる。
物語の序盤、しかもタイトルを描くということだけでこの物語の土台であり象徴を暗示されている。
3.その他の考察
①衣装
白と黒の衣装が対照的な印象を受けるが、白黒をに身に付けるのは主に深馬、真末、ポリ滝川先生。この3人の存在と繋げて考察する。
結論は、白が表の深馬、黒が深馬の深層心理の可視化である、ということ。
深馬が染められる=深層心理の部分が強くなる、葛藤が生まれる
大きく変化したのは真末と体を重ねた後だが、その前に衣装に変化があった。
→深馬の黒いバッグ
真末の名前を知り存在を認識したとき、深馬はまだ上下白。しかし、カバンを肩から掛けることで白の中に一本の黒が現れ、絶妙な違和感が生まれる。ここで過渡期が表現されている。
②秋に咲いたソメイヨシノ
ソメイヨシノは、花が咲いている時期に若葉が伸びないという特徴がある。また、自然発生したのではなく接ぎ木によって生まれた種類で、クローンである。そしてごく稀に、秋に咲く(狂い咲き)。
狂い咲きの原因は、台風、虫食いやそれによるストレス。花が咲くだけならまだいいが、葉も伸びてしまうとある問題が起こります。葉芽は限られた数しかないため、太陽の光が弱い秋だと光合成が上手くいかず、枯れてしまう。※狂い咲きした蕾は次の春咲くことはできないが、他の蕾は咲くことができます。
これが舞台でどのような役割を担っているのか。
結論を言うと、ソメイヨシノは深馬。
(実力としてはまだまだなのに)入学試験でたまたま上手くいったことで周囲から過度に期待され、ストレスを感じ葛藤している。
重要なのは、ソメイヨシノの1輪の花弁だけが深馬なのではなく、1本の木自体が深馬であるということ。今の深馬は1本のソメイヨシノでありその中でも狂い咲きをした蕾である。
キマイラを連想させるグラフィックについて
①ライオンが春、ヤギが夏、ヘビが冬の象徴であること
②グラフィックはヤギとヘビしか描かれていないが、ライオンを意味するシンバ(深馬)が加わり、本当の意味でグラフィックが完成する
①について、秋はどこにあるのか?
→秋に狂い咲きしたソメイヨシノです。
②について
ライオンである深馬が加わり既に完成しているように見えるが、このグラフィックに携わった深馬は2人いる。真未と深馬。真未は狂い咲きした深馬と反対に位置する存在なので春を、狂い咲きした深馬は秋を表す。
つまり、ライオン、ヤギ、ヘビが揃ってキマイラになるが、そのライオンが春なのか、秋なのかで2通りのキマイラが存在することになる。
このキマイラのグラフィックは、3回出てくる。まず、2人の共同制作。次に、深馬が入院する前に消そうとしたが白スプレーが無くなり消せなかったとき。最後に、深馬の回想シーン。
ここのポイントは色。1番目と2番目は、色鮮やか。これは、春である真未が主導で制作したから。対して、3番目は真っ白。ひとり狂い咲いてしまった深馬であり、ソメイヨシノの花が咲いていない秋と繋がります。
ここからも、白=深馬であることが考察できる。タイトルの考察の根拠にも。
③多面性
多面性が象徴されている部分
・真未の大家さんは、優しいが帳簿を隠している
・(杏奈の面接のとき)人のいい部分は別の人にとって悪くもある
・深馬を伸ばそうとしているように見えた滝川先生は、深馬の技術を手に入れようとしていた
・舞台上段の杏奈は面接で深馬について語るが、下段では杏奈が知らない深馬がいるという演出
ざっくり言うと人間の表と裏
この舞台では深馬の多面的な部分が真末、ポリ滝川先生に現れているが、それを深馬の演出だけで表すのではなく、深馬の周りにいる人たちの演出でも表すことでより普遍的に人間の多面性があるということを強調する役割を担っている。
また、ポリダクトリーの「ポリ」は「複数の」という意味。そしてタギングから連想される多指症は、1本の指が2本以上に別れて形成されるという症状。
深馬の5本指に加わった真未の指。その他真未の指を上書きするポリ滝川先生から、真未とポリ滝川先生の繋がりが深いということが考察できる。
④トマトスープの詩
(調べても出てこなかったということはおそらくシゲアキ大先生作?)
「花弁が押し問答をする」
押し問答とは、互いに自分の見解を主張して後に引かない様子。
深馬と真未がお互いの意見をぶつけ合っている様子が印象的だが、ここでも大事になってくるのが真未とポリ滝川先生が深馬であるということ。ソメイヨシノが深馬であるということは、深馬である真未とポリ滝川先生もソメイヨシノである。
ポリ滝川先生と深馬がぶつかるシーン
ポリダクトリーを装っていたのがポリ滝川先生であったというのが分かったシーン。真未と深馬、ポリ滝川先生と深馬がぶつかっていぐが、結局のところ深馬と深馬のぶつかり合い。同じソメイヨシノの木に咲いている花弁が押し問答をしているということを演出している。
ソメイヨシノの伏線がここにも張られ、深馬の葛藤までも暗示している。
⑤スプレーを隠された白い真未
スプレーを隠され、真末が泣き叫ぶ様子が印象に残るシーン。
このときの真末の衣装は白。
舞台を通して真末が白い衣装を着るのは、ここと最後のシーンのみ。
真末=深馬であるので、白衣装ということを踏まえると、このときの真末は葛藤していない深馬になる。
◎重要なポイント
真末が「どこに隠したの?」「深馬がやったんでしょ?」と言うときの言い方。声のトーンが上がり、まるで幼稚園児のように純粋に疑問に思い、困惑している。
真末にとって腕のスプレーは呼吸と同じように自然なもので、表現手段。そのスプレーを隠され、表現手段を失った真末は自由な芸術をすることが出来ない。
この印象的なシーンで自由に芸術を楽しんでいた幼い頃の深馬を思わせることで、あのときのように衝動に駆られて芸術をしたい深馬が抽象的に描かれている。
⑥最後の白い真未
ソメイヨシノの花びらが舞う中、舞台上段に立つ白い真末。真末という存在が消えたわけではないのに、あえて深馬と同じ白の衣装です。
物語のクライマックスで「深馬」という存在と深馬の状態を表現したのではないか?
「深馬」という存在と深馬の状態
↓↓↓
真末が深馬であること。
ソメイヨシノが深馬であること。
舞う花びらが、留年を決めたことで以前にはあった可能性が1つ消えたという暗示。
白い真末、(上半身)白の深馬、と2人いるように見えるが実際は深馬ひとり。深馬という存在を2人作ることで、1つの可能性が消えたと同時に葛藤以外の新たな可能性がうまれたという暗示。
真末という存在が消えたわけではない。原作にも「きっと今も染まっているはずだ」「薄くなってもずっと僕の中に残っているに違いない」とある。これが現れているのが、深馬の黒ズボン。黒ズボンだけは、真末に染まってからずっと変わっていない。可能性が生まれた深馬の中にもまだ真末がいるという暗示。
⑦真未、ポリ滝川先生が深馬の深層心理
真未=深馬の根拠は深馬の絵を壊す動画。原作では完全に現実世界に存在する人として描かれていた真未だが、舞台では違う。舞台は台詞と演出で世界観を作る。真未は深馬の中にある別人格を可視化した存在だが実際には存在しないため、深馬と真未の言い争いは深馬自身の葛藤を表す。表には出さなくても自分の中では常に何かしらの不安や葛藤がある。深馬の感情の交錯を目で捉えられるようにしている?
次に、ポリ滝川先生について。滝川先生の存在自体は深馬、北見、原田で同じだが、ポリダクトリーが滝川先生ということだけは、一致しない。
このときの滝川先生の衣装は、黒ジャケット。
黒は深馬が認識できていない深馬自身の部分。
深馬は自分たちが作ったグラフィックを奪われる場面を目撃したにも関わらず、原田に滝川先生の功績として世に出すよう伝えている。深馬はポリ滝川先生に何かを重ね、委託したように思える。
⑨印象的な台詞
「広がるときは、同時に閉じているときでもある」
「私が深馬の自由になる」
「君はなんにだってなれるんだよ」
「可能性が広がるときは、同時に閉じているときでもある」
ソメイヨシノを連想させ、必然的に深馬を表すこの台詞。花は開ききってしまうとあとは閉じることしか出来ない。
可能性が閉じているということと、自由が制約されていることは似ている。
深馬と真末の生い立ちに注目する。絵画教室に通い、周囲に才能が汲まれて芸術の道を進んだ深馬。しかし、今となっては自分で何をしたらいいのか分からなくなっている。一方で、誰かではなく自分の意志で芸術を選んで、自由に芸術を楽しむ真末。
2人を比べると、深馬が選んできた道は周囲の人によって引かれたレールの上を行くようなものに思える。才能を認められ周囲からいろいろな道が用意されるということは、自分で自分の選択肢を作るという自由がなくなってしまうこと。
そんなとき真末から発せられた言葉。
「私が深馬の自由になる」
これは、幼い時のように自分の意志で思うままに絵を描きたい、という深馬の深層心理の現れ。
「君はなんにだってなれるんだよ」
狂い咲きしてしまったソメイヨシノの蕾は次の春に咲くことが出来なくても、別の蕾は咲くことが出来る。狂い咲きしてしまった蕾は、現在の深馬。しかし、ソメイヨシノは一輪の蕾だけでない。多くの蕾=可能性がある。
その中には芸術の道を外れるという可能性もあるかもしれないが、そのことも含めて一見可能性のある道を進んでいるようで行き詰っている深馬に「なんにだってなれる」と言った。
⑨現実?妄想?
真未とポリ滝川先生は深馬の深層心理であるため実際には存在しないが、深馬が今の自分、将来の自分に葛藤しているのは事実であり、実在する深馬の深層心理であるからこそ、現実である。この舞台は独特な視点で展開されているため、どこまでが現実なのか分かりにくくなっている。
居酒屋のシーンで、原田が「まだ、ダメみたいだな…」という印象的なシーンがある。この言葉からわかるのは、少なくとも北見と原田は、深馬は別人格を持っているが深馬自身まだそれを認識できていない、という事実を知っているということ。
もし北見たちの視点でこの舞台が描かれたなら、現実の出来事ということを念頭に置いて見ることができる。しかし、深馬という現実にある存在を見ながらも、その人の中で起こっている葛藤などの本来見えないことが可視化されたたことにより、どこまで現実なのか?という混乱が生まれる。さらにその混乱をもう一押しするのが深馬の状態。深馬は真未もポリ滝川先生も自分とは違う1人の人間として認識している。
別人格を持つ人は、自分の中に別人格があると認識できている人もいればそうでない人もいる。また、光が強いほど影も強くなるように、自分を押し殺す力が大きいほど今の自分と真逆な人格が生まれる。
この状態の本人と別人格を可視化すると、本当は一人の人間であるのに2人、または3人以上の全く違う人間が関わっているように見える。そのため同一人物であるという事実を突き付けられても理解し難い。
最後の回想シーンで、自分一人でグラフィックを完成させているのにも関わらず、途中の記憶がなく混乱する深馬が描かれている。ここだけ見ると、グラフィックのきっかけを作ったのも完成させたのも全て現実の深馬ということが分かりやすい。
結果として、深馬には自分でも気づいていない深層心理の部分があり、それが真末、ポリ滝川先生として表れている。舞台『染、色』は、「自分以外の何者かになろうとする人間、そして人間の多面性」を描いている。
という考察、、!